言葉はミルフィーユみたいに。

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なんだか、どこもかしこも説明的な記事タイトルのブログばかりになっている気がする。最近のブログランキングなんかを見ていてもほとんどがワンセンテンス丸ごと使ったようなタイトル。テレビの番組欄みたいなぎゅうぎゅう詰め感。気が付けば自分のもそうだったりする。(ドラマの感想とかは特にそうなりがち)

 

これは、SEO対策の本とかのせいもあるし検索の評価基準なんかもあるんだろうけど、はてなブログ初心者の私も、多分に漏れずその影響を受けて変なタイトルばかりをつけるようになってきている。それが自分でも気持ち悪い。

 

ブラの上からブラトップ

なんで長文タイトルが気持ち悪いのかの理由のひとつに

「商売っ気を感じるから」があると思う。

長文タイトルには自分のことばかり話すナルシストな雰囲気も感じるから。

ブログのタイトルが、総じて書店の実用書のコーナーのようになっているから。

全部こっち向いてタイトルがバーンと主張しているような平積みの本のような。

「らっしゃい、らっしゃい!」の呼び込みが激しい洋服店、みたいな。

 

そんな長いタイトルを見ていると「ブラの上にブラトップを重ねるような」違和感を感じてしまう。そして、違和感を感じながらも書いてしまう矛盾。

 

誰かの日常の覗き窓

個人的な好みで言えば、ネットの文章はそこに漂っていて欲しい。書店のように綺麗に並んでいなくていいから、誰かのアンテナに偶然触れた時、拾い上げられるような感じで漂っていて欲しい。「らっしゃい」セールでワゴンに積まれて売られる服ではなく、棚の片隅にあっても自分で見つけた服感が欲しい。

見たいのは、想像の余地があるタイトルなのだ。「アンドロイドは電気羊の夢をみるか」みたいな。言葉は本来、ミルフィーユみたいに幾重にもなっていて、想像が膨らむものだと思う。

 

他人の日常こそドラマチック

個人の他愛のないブログが検索にひっかからなくなってきた、という事を書いている記事を見かけたりする。確かに、最近は検索で探したい記事や情報を掘り出すことが出来にくくなってきた。「立派な誰か」や「有識者」や「公的な」場所から発信された「正確な情報」も必要なんだけど、偏ってたり、間違ってたり、主観で書かれている個人のブログももっと見たい。よく「あなたが考えていることなんて誰も興味がない」という風に書いているブログ指南を見たりするけれど、そんなことはない。

 

そもそも、映画やドラマや舞台は、知らない誰かの日常を切り取ったもの。

知らない誰かにとっては当たり前の日常も、他人にとってはドラマになる。それが、人と自分は同じように見えて同じじゃない、ということなのだと思う。岸田国士の戯曲で「紙風船」というのがあるのだけれど、夫婦がただ会話をしながら紙風船をついている物語だ。だが、それが面白い。個人ブログは、そんな面白さがあると思う。

 

「正確な情報を調べてから書け」と書いている人もいるけれど、そんなことをするのは論文とか仕事で書くときくらいでいいと思う。誰かを傷つけるようなことを書いたりするのは別にして。(調べるのが悪いってことじゃない)

 

長いタイトルが増えた理由

長いタイトルが増えてきた理由は、それだけ人の知りたいことが細分化してきているのかな、とも思う。たとえば私が婚活について調べるなら「病気」「婚活」「40代」「借金」「可能性」が一回で入れるキーワードだ。それに「摂食障害」「慢性疲労症候群」も加えるかもしれない。これが世の中の独身で婚活している40代の数だけあると思うと、そりゃ目的の記事にたどり着きやすくするためには、タイトルも長くせざる得ないのかなとも思う。ちなみに、「病気、婚活、40代、摂食障害、借金、可能性」では7件しかヒットしない。

 

タイトルから直結で内容が理解できる記事の洪水に慣れてしまって、すでに劣化している脳がさらに劣化していないか心配だけれど、こんなこと書きながらもわたしもまた長いタイトルを書いてしまうんだろう。

 

でも、ときどきはちゃんとミルフィーユみたいな言葉も書いていきたい。

 

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