ゴーヤの苦さを美味しいと感じるのを大人になるとは言わないけれど

以前は楽しめたものが前のように楽しめなくなったのは、自分の世界が昔より広がったからなのか、それとも味覚が落ちたからなのか。

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「食わず嫌いはよくない」と思い始めたのはいつからだろうか。

 

20代半ばまで男性が苦手だったわたしは、当時勤めていたパン屋さんでいつも距離をつめて話しかけてくるAさんというお客さんが苦手だった。パンを並べているわたしに肩がぶつかりそうなくらいの近距離で話しかけてくるAさんは、茶髪・長身で若かりし頃の浅野忠信に似た風貌の建設会社の社長の息子で、いつも高価そうな香水の香りをバルサンのように店内に残していく。わたしの大好きなパンの匂いを台無しにするありがたくないお客さんだった。

 

「あのさー、今度一緒にクラシックのコンサート聞きにいかない?」

 

そう言われたのは、まだ暑さの残る秋口だったと思う。

距離を詰められる前に早々にカウンターに避難していたわたしに、Aさんはそう言った。いつもだったら「忙しいので」とか「いえ・・・」とか即拒絶の言葉を返していたのに、ちょっと間をおいてしまったのは一緒に働いていたパートのおばちゃんに言われたばかりだったからだ。

「あの人、いつもあなたのこと聞いてくるよ。いいんじゃないの?イケメンだし優しそうだしちょっとデートでもしてみたらどうなの」

 

そもそもその当時のわたしは男性が好きではなかった。

もっというと、わたしを「女性として見る」男性が好きではなかった。理由は、長年の近親者による暴力の支配があったからだ。暴力による支配では、女性性が表に出ない方が受ける被害が少ない。なので、身体は女性的なラインのないガリガリである方がよかったし、女性らしく見えるための化粧もしていなかった。当然、男性と付き合ったこともなくデートなんてしたこともなかった。(したいとも思わなかったけど)

 

楽しみらしいことと言えば、朝4時にパン屋とかけもちのコンビニのバイトに向かう前、当時人気だったコーエーネオロマンスゲーム「アンジェリーク」をプレイして、自分を傷つけることのない恋愛を疑似体験するくらいだった。当時は摂食障害もわたし史上全盛だったので、他人と一緒に何かをするということも難しく(人前で食べる、ということを)極力避けていた。

 

そんなわたしがAさんからの誘いを即答で断らなかったのは、一緒に働いていたパートのおばちゃんの言葉もあったが、「このまま誰とも付き合わないまま一生を終えるのかな」という漠然とした不安もあったからだ。

人並を拒否するのに、人並でなくなっていくことには不安感を覚える。人間とは変なものだと思う。ブラックな会社で働くことに違和感を感じながらも”会社員である”という所属や肩書がなくなることに不安を覚えるというのに似ているかもしれない。

 

そんなわけで、Aさんの誘いを受けてクラシックのコンサートに一緒に行くことにした。ちなみに、わたしは特にクラシックが好きなわけではない。私が子供のころにピアノをやっていた情報をおばちゃん経由でAさんが仕入れたところから、ピアノ=クラシックとなったらしい。ただ、わたしはAさんに好意があるわけではない。むしろどちらかといえば苦手感を抱いていた。しかし「食わず嫌いはよくない」というところから、「一度行ってみたら違うんじゃないか」という根拠のない期待からデートにやってきた。その結果どうなったか。

 

まず、コンサートに彼はスーツでやってきた。ちなみにいつもは作業着だった。なぜかシャツのボタンは3番目くらいまで外してあって、ネックレスがチラ見えのホスト感漂う雰囲気。申し訳ないのだが、それを見た瞬間アンジェリークで言う好感度が一気にマイナスになった気がした。(そもそも減るようなハートがないけど)

車はスポーティーで高級感のあるものだったが、中のルームフレグランスがどうにも強すぎた。彼の香水と相まって、コンサート会場までの1時間弱のドライブがかなりつらい。そして酔った。元々乗り物に弱いわたしは、会場に着くころには助手席でスライムのように伸びていた。更になぜかドライブの最中も彼は常に体と顔が左寄り。近い。

 

喋っていたのは何だったか、正直あまり覚えていない。20年くらい前のことだから当然なのだが「帰りたい」と感じたことだけは覚えている。コンサートは無難なものだったが、その間もその後もとにかく距離が近かった。正直それが気になってコンサートどころではなかった。結局、その後何回かデートに誘われたのだが、気が進まずAさんとの仲はそれ以上進展することもなかった。これが好きなひとだったら違うのだろうか・・・とも思ったが、それが違うことに後々気が付いた。

 

おそらくわたしは相手との距離感である「パーソナルスペースが狭い」人だったのだと思う。さらに言えば「女性として見られること」「強すぎる相手の好意を感じること」がわたしには負担に感じるのだ、ということ。その後、縁あって異性を感じさせない人と恋愛することになり(女性的な人だった)恋愛未経験からは脱出し「女性として見られること」も徐々に大丈夫になり、化粧も覚えたけれど、パーソナルスペースは狭いままだ。ただ、中にはそのパーソナルスペースを縮められる人がいて、その人とだけは恋愛できている。

 

どういうのが自分にとってダメなのかわかったという経験にはなったけれど、それがよかったのか悪かったのかはわからない。ただ「食わず嫌い」でいるといいものにも巡り合える可能性は減るのかな、とも思っている。でも「まずっ」となるか「あれ?意外に・・」となるかは、その時の味覚次第なんじゃないだろうか。

 

子供の頃、学校給食で無理やり食べさせられたトラウマで長年肉が嫌いだったのだが、いつの間にか食べられるようになった。今ではお肉も美味しいと感じる。逆に、そのトラウマで今でもにんじんやシイタケが食べられない友人もいる。子供の頃には苦みがおいしいなんて理解できなかったけど、苦みがあるゴーヤを「美味しい」と食べる。

摂食障害でいいことなんて何一つないと思っていたけど、ひとつだけ上げるとすれば「好き嫌いがなくなった」ということだろうか。気が付いたら、なんでも食べられるようになっていた。それはまあ、過食ではあるけれど毎日12食を食べて20年経過したとすると3食で換算すれば約80年分の食事を取っていることになるからかもしれない。

 

「多くを知っている方がよりいい」という理論にはどうかなあと思うけど、世の中には自分の知らないことがたくさんあって、それを知ることで人生が拡張されるのも確か。

先日、生まれて初めてタピオカドリンクを飲んだのだけれど、意外に美味しくてびっくりした。それ以上にびっくりしたのが、「興味ない」と言ってたから飲まないだろうと思っていたパートナーが「上手い」とめちゃくちゃ飲んだこと。おかげで、ドリンクのお使いリストにタピオカが増えた。

 

以前は楽しめたゲームをもうしようとは思わないが、それは自分の味覚が落ちたから楽しめなくなったのではなくて旬が過ぎたからなのかなと思う。(飽きたといえば身も蓋もないが)ゲームより実際の方が楽しいし・・・と思っていて、ゲームから離れていた私だが、先日ホームレスが空き缶を集めてレベルアップしていくしょーもないスマホゲームにちょっとはまってしまった。金の空き缶とかガンガン拾えるとポイントが高い。最後はロケット買うんですけど。空き缶、拾いまくるの楽しい。袋で落ちてるともっとポイント高い。結局楽しめなくなったと思っていたのは何だったのか。

 

まあ、”たのしい”と感じられるものが自分の周りに増えるのは、絵の具のパレットに色が増えるようでわくわくするということ。そして、パレットの色が少なかったとしても組み合わせで濃淡は無限にあるということ。「嵐が丘」の作者なんて、ほとんど外界に接しない生活をしてあんなに豊かな小説を書けたんですもんね。

すみません、話があちこちに飛んで。

 

そんなことを思いながら、ほぼ引きこもりをしながらこの文章を書いていつの間にか朝になりました。そろそろ寝ようと思います。おやすみなさい。

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